58歳、私の仕事場ができた日

何もない和室に机を置き、自分に合う仕事場を見つけた58歳女性の物語

退職して最初に始めたかったこと。

それは、家でブログを書くことだった。

第一章 ブログを書く前に

リビングに机を置き、パソコンを開く。

これからは、この場所が私の仕事場になる。

そう思っていた。

ところが、文章を書き始めるたびに、なぜか席を立ってしまう。

キッチンに並んだ調味料が気になる。

少し並べ替えて、席へ戻る。

今度は壁が目に入る。

「ここに絵があったら、少し落ち着くかな。」

また立ち上がる。

気づけば、ブログを書く時間より、部屋を見渡している時間のほうが長くなっていた。

その日は、文章を書くことをいったんやめ、部屋を整えることにした。

棚の向きを変え、物の置き場所を少し変える。

それだけで、気持ちが少し落ち着いた。

もう一度パソコンを開くと、今度は自然に文章を書き始めることができた。

けれど、しばらくすると、また別のものが目に入った。

私は再び手を止めた。

あの日、私に必要だったのは、新しいパソコンでも、立派な机でもなかった。

落ち着いて働ける場所。

私はまだ、そのことに気づいていなかった。

第二章 居場所を探していた

部屋を整えると、今度は机の位置が気になり始めた。

窓の近くへ動かしてみる。

椅子に座る。

何かが違う。

今度は、机の向きを変えてみる。

それでも落ち着かない。

少し動かしては座り、また動かしては座る。

机ひとつ置くだけなのに、思っていたより難しかった。

ようやく「ここかな」と思える場所が見つかった。

パソコンを開き、文章を書き始める。

しばらくは、席を立たずに書くことができた。

けれど、完全に落ち着いたわけではなかった。

机は同じ。

パソコンも同じ。

ほんの少し場所を変えただけで、集中できる時間は確かに長くなった。

そのことが、私には不思議だった。

私はこれまで、仕事は自分が頑張るものだと思っていた。

環境のせいにしてはいけないとも思っていた。

けれど、本当にそうだったのだろうか。

ほんの少し机を動かしただけで、心の落ち着き方が変わる。

もしかすると、集中できないのは、私の努力が足りないからではないのかもしれない。

その静かな気づきが、私の中に残った。

そして、家の中をもう一度見渡したとき、一つの部屋が目に留まった。

第三章 何もない部屋

家の中に、一つだけ静かな部屋があった。

何もない和室だった。

家具らしい家具はない。

飾りもない。

物も、ほとんど置いていない。

私は試しに、机を和室へ運んでみた。

パソコンを開く。

椅子に座る。

ただ、それだけだった。

それなのに、不思議なくらい気持ちが落ち着いた。

目の前には白い壁。

横を向いても、気になるものは何もない。

リビングでは、調味料が目に入った。

棚が気になった。

壁が気になった。

そのたびに席を立っていた。

けれど、この部屋では違った。

気づけば、文章だけを考えていた。

時計を見ることもない。

部屋を見回すこともない。

ただ、書くことだけに集中していた。

そのとき、ようやく分かった。

私は、仕事をする場所を探していたのではなかった。

心を乱されずにいられる場所を探していたのだ。

会社では、働く場所を選ぶことはできなかった。

与えられた机に座り、その場所に自分を合わせる。

それが仕事なのだと思ってきた。

だから、自分に合う場所があることなど、一度も考えたことがなかった。

何もない和室に座りながら、私は初めて知った。

働く場所は、自分で選んでもよかったのだ。

第四章 答えは、ずっと前から知っていた

和室でブログを書くようになってから、毎日が静かに整い始めた。

パソコンを開く。

座る。

書く。

それだけのことが、自然に続いた。

以前のように、何度も席を立つこともなくなった。

ある日、ふと思った。

「どうして私は、この部屋だと落ち着くのだろう。」

答えを探すように、これまでの自分を思い返した。

考えてみれば、昔からそうだった。

何かに集中したいときは、周りに物が少ない場所を選んでいた。

勉強をするときも。

考え事をするときも。

気づけば、静かな場所へ移動していた。

私は昔から、自分が落ち着ける環境を知っていたのだ。

ただ、働く場所だけは自分で選べないと思っていた。

会社では、決められた場所に座る。

周りが気になっても、音が気になっても、自分が慣れるしかない。

長い間、それを当たり前だと思ってきた。

退職して初めて、机を動かし、場所を選び、自分だけの仕事場をつくった。

それは、ただ部屋を整えたということではなかった。

私は、自分が心地よく働ける場所を、自分に返してあげたのだった。

第五章 窓だけは見える場所

押し入れを書斎に変える方法を目にしたことがある。

狭く囲まれた空間なら、落ち着いて仕事ができそうだった。

私も、一度だけ考えた。

けれど、その考えはすぐに消えた。

私には、一つだけ譲れないものがあった。

窓だった。

文章が浮かばなくなったとき。

少し疲れたとき。

私は、ほんの少し顔を上げる。

窓の向こうには空がある。

風に揺れる木がある。

季節が少しずつ移り変わっていく景色がある。

その景色を眺めていると、固まっていた気持ちがゆっくりとほどけていく。

何も見えない場所が欲しかったわけではない。

見なくてもよいものを減らし、見たいものだけをそばに置きたかった。

だから私は、何もない和室を選んだ。

部屋の中には、気を取られるものがない。

けれど、顔を上げれば窓が見える。

空は毎日違う。

雲の形も、風の音も、季節の色も少しずつ変わっていく。

私が欲しかったのは、何もない部屋ではなかった。

静かに仕事をしながら、時々顔を上げられる場所だった。

第六章 私の仕事場

今日も私は、和室でパソコンを開く。

机の上には、いつものコーヒー。

窓の向こうには、ゆっくり流れる雲が見える。

文章が止まると、少しだけ顔を上げる。

空を見る。

風に揺れる木を見る。

それだけで、気持ちが静かに整っていく。

退職してから、私はたくさんのものを手放した。

肩書きも。

決められた働き方も。

これまで当たり前だと思っていたことも。

その代わりに、初めて手に入れたものがある。

自分に合う環境を、自分で選べる時間だった。

若い頃の私は、どんな場所でも、自分が合わせなければならないと思っていた。

けれど、今は違う。

机を少し動かしてみる。

落ち着かなければ、別の部屋へ移ってみる。

疲れたら、窓の外を見る。

そんな小さなことを、自分で決められる。

それは、わがままではなかった。

自分を大切にしながら働くということだった。

今日も私は、窓の外をひと目見上げてから、静かにパソコンを開く。

何もなかった和室に、机が一つある。

ここが、今の私の仕事場になった。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

人生は、大きな出来事だけで変わるものではありません。

何気ない一日が、人生でいちばん大切な一日になることもあります。

この物語が、あなた自身の「これから」を見つめる時間になれば幸いです。

コメント