第一章 雪の日
雪が降っていた。
そんな記憶だけが残っている。
朝だったのか。
昼だったのか。
コーヒーを飲んでいたのか。
細かなことは思い出せない。
覚えているのは、部屋が静かだったこと。
暖房の音だけが、小さく響いていたこと。
私はスマートフォンを手に取り、一通のメールを開いた。
閉じる。
もう一度開く。
画面に並ぶ文字は、何度見ても変わらない。
三回目の不採用通知だった。
理由は書かれていない。
そこにあったのは、結果だけだった。
何か見落としている言葉があるのではないか。
どこかに理由が書かれているのではないか。
そんなはずはないと分かっていても、私は何度も同じメールを読み返した。
何度読んでも、答えは見つからなかった。
あの日、私はまだ知らなかった。
この一通のメールが、十年間勤めた会社を離れるきっかけになることも。
そして、それが、自分の人生を取り戻す始まりになることも。
第二章 十年間
あのメールを受け取るまで、私は会社を辞めるつもりなどなかった。
私は十年間、その会社で事務員として働いていた。
一年ごとの契約を更新しながら迎える春。
その繰り返しが、いつしか私の日常になっていた。
仕事は好きだった。
目の前の仕事に向き合い、誰かの役に立てることが嬉しかった。
この場所で、できるだけ長く働きたい。
その気持ちに迷いはなかった。
募集が始まるのは十一月。
試験は翌年一月。
仕事が終われば机に向かい、休日も参考書を開く。
三回のお正月は、試験勉強とともに過ぎていった。
筆記試験には三回とも合格した。
それでも、面接だけは越えられなかった。
三回とも。
十年間積み重ねてきた時間は、気づかないうちに私の暮らしの一部になっていた。
だから、あの日届いた一通のメールは、ただの結果通知ではなかった。
第三章 三日間
不採用通知を受け取った翌日も、私はいつもどおり仕事へ向かった。
机に座れば、やることは変わらない。
電話が鳴れば受話器を取り、来客があれば笑顔で迎える。
昨日までと同じ一日。
それなのに、昨日までとは違う自分がいた。
三日間、考え続けた。
帰り道。
台所に立つ時間。
布団へ入って目を閉じたあとも。
頭に浮かんでいたのは、不採用の理由ではなかった。
紹介してもらえば、この会社で働き続ける道はある。
十年間続けてきた仕事を手放さなくてもいい。
そう思うたびに、心は少し揺れた。
でも、その揺れは長く続かなかった。
私が手放したくなかったのは、仕事ではない。
守りたかったのは、もっと別のものだった。
三日後、私は管理職の部屋を訪ねた。
「……ダメでした。」
その一言に、管理職は静かにうなずいた。
そして、別の部署を紹介できることを話してくれた。
私は、その言葉に感謝した。
本当にありがたいと思った。
それでも、答えは変わらなかった。
「今回で、退職します。」
その言葉を口にした瞬間、不思議なくらい心は静かだった。
第四章 もう一つの役目
その年、息子は就職した。
気がつけば、家の中は静かになっていた。
毎朝の「行ってらっしゃい」も、
帰宅時間を気にしながら夕食を作ることもない。
一人で過ごす時間が、少しずつ当たり前になっていた。
思えば私は、働きながら子どもを育ててきた。
暮らしを守ること。
明日をつなぐこと。
それが、毎日の積み重ねだった。
退職の二年前、公営住宅への応募を始めた。
退職が決まってからではない。
もし仕事を失う日が来ても、暮らしだけは守れるように。
それが、あの頃の私にできる精一杯の備えだった。
息子が社会へ送り出されたその年。
私の中でも、一つの役目が静かに終わっていた。
第五章 ページをめくる
会社を辞めると決めた日。
未来が見えていたわけではない。
不安が消えたわけでもない。
これから、どんな毎日が待っているのか。
そのときの私は、何も知らなかった。
ただ、一つだけ分かっていたことがある。
もう、自分に嘘をつきたくなかった。
誰かのために歩き続けてきた人生は、
私にたくさんのものを与えてくれた。
これからは、自分の人生も大切に生きてみようと思った。
あの日、私は会社を辞めた。
でも、本当に終わったのは仕事ではない。
子どもを育て、
暮らしを守り、
一つの役目を終えた日だった。
その日、私の人生は静かにページをめくった。
この一冊を読み終えてくださり、
ありがとうございました。
人生の本棚には、
まだたくさんの一冊があります。
もしよろしければ、
次の一冊も手に取っていただけたら嬉しいです。


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