「仕事に行きたくない。」
そんな朝が、退職前には何度もありました。
58歳。
退職まで残りわずかとなった私は、毎朝のように同じ気持ちを抱えながら車を走らせていました。
変わらない道、変わる心
会社へ向かう道は、何年も変わっていません。
景色も、信号も、交差点も、いつもと同じ。
それなのに、心だけは少しずつ変わっていったのです。
「この道を走るのも、あと何回だろう。」
そんなことばかり考えるようになっていたのです。
3月9日の朝
その日は、3月9日。
春はもうすぐそこまで来ているはずなのに、空は少し雨模様。
冷たい空気の中にも、どこか春の匂いが混ざっていたのを覚えています。
会社へ着くと、私はいつもの駐車場へ車を停めました。
横には団地が見えます。
何年も見続けてきた、見慣れた景色です。
エンジンを切ると、ラジオの音もふっと途切れ、車内は急に静かになりました。
私はそのまましばらくハンドルに手を置き、静けさの中で時間だけが流れていきます。
毎朝の20分
私は毎朝、出勤の20分ほど前には会社へ着いていました。
この20分は、私にとって大切な時間です。
仕事モードへ頭を切り替えるための、静かな準備時間。
その日の仕事をぼんやり思い浮かべながら、ただ車内で時間を過ごしていました。
忘れられない朝の出来事
始業チャイムが鳴って間もなく、一人の同僚が私の方へ歩いてきました。
その手には、小さな和菓子の包みがありました。
「詩乃さん。」
そう声をかけられると、自然に笑顔がこぼれます。
「娘、合格しました。」
その瞬間、言葉より先に、気づけば気持ちが動いたのです。
ただ「よかったね」という想いだけが胸に広がりました。
その娘さんのことは、幼いころから知っています。
長い時間を見てきたからこそ、この一言は特別でした。
気づいたときには、自然に抱き合っていました。
涙ではなく、それは積み重ねてきた時間がもたらす感情だったのかもしれません。
和菓子の温かさと、手のぬくもりが今も残っています。
最後まで笑顔でいたかった理由
その日も仕事はいつも通り進んでいきました。
電話が鳴り、書類が流れ、日常は続きます。
しかし心の中では、朝の出来事が繰り返されていました。
退職までの日々には、仕事に行きたくない朝もあったのです。
不安や迷いも確かにありました。
それでも最後まで働き続けたのは、「ここで過ごした時間を大切にしたい」という気持ちでした。
退職という終わりと、誰かの始まりが重なったあの朝。
人生は区切りではなく、流れの中にあることを感じました。
だからこそ、最後まで笑顔でいようと思ったのです。
この朝が教えてくれたこと
退職前には、仕事へ行きたくない朝が何度もありました。
それでも会社へ向かったのは、自分の時間を丁寧に終えたかったからです。
3月9日の朝。
団地の見える駐車場で過ごした20分。
少し雨模様の空。
静かな車内。
そして小さな幸せの報告。
それらすべてが、今も心に残っています。
人生には、何気ない一日が特別になる瞬間があります。
それは派手な出来事ではなく、静かな朝にあるのかもしれません。
この一冊を読み終えてくださり、
ありがとうございました。
人生の本棚には、
まだたくさんの一冊があります。
もしよろしければ、
次の一冊も手に取っていただけたら嬉しいです。


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