第一章 見えていた景色は、私だけが知っていた
「大丈夫?」
そう思われていたかもしれない。
三度目の面接に落ち、退職が決まった五十八歳。
周りから見れば、不安でいっぱいの毎日に見えていたのではないだろうか。
実際、私も少しだけみじめでした。
朝、職場へ向かう車の中で、
「可哀想だと思われているかもしれない。」
そんな考えが頭をよぎることもありました。
もちろん、本当にそう思われていたのかは分かりません。
そう感じていたのは、私自身です。
けれど、不思議なことがありました。
その気持ちは、すぐに未来へ押し流されていったのです。
私の心は、もう会社だけを見ていませんでした。
家へ帰れば、ブログを書く時間が待っています。
収入になる保証はありません。
続けられる保証もありません。
それでも、自分の言葉で、自分の人生を書いてみたい。
その小さな思いは、毎日少しずつ大きくなっていました。
十年間、私はこの会社で働いてきました。
子どもを育て、生活を守り、毎年の面接に一喜一憂しながら過ごした時間です。
この会社を失ったら、生きていけない。
そう思っていた時期もありました。
だからこそ、自分でも信じられなかったのです。
退職まで、あと二週間。
あれほど執着していた会社を前にしても、心は穏やかでした。
終わることへの寂しさよりも、その先にある毎日を思い浮かべていました。
未来は、どうなるか分かりません。
もちろん、不安もあります。
それでも、不安ばかり見つめていても未来は変わらない。
それなら、自分で選んだ道を信じて歩いてみよう。
そう思えたとき、会社は「しがみつく場所」ではなく、「感謝して送り出す場所」へ変わっていました。
退職まで二週間。
周りには終わりが近づいているように見えていたかもしれません。
でも、私だけは知っていました。
あの日々は、終わりへ向かう時間ではなく、新しい人生が静かに始まっていた時間だったことを。
第二章 未来だけを見ていた
退職まで、あと二週間。
毎朝、私はいつもの時間に家を出ました。
いつもの道を走り、いつもの駐車場へ車を止める。
職場へ入れば、電話が鳴り、来客があり、一日が始まります。
何一つ変わらない朝でした。
変わっていたのは、私の心だけでした。
仕事へ向かう足取りは、決して軽くありません。
面接に落ちたことは事実です。
職場へ行けば、
「可哀想だと思われているかもしれない。」
そんな気持ちになる日もありました。
本当は誰もそんなふうに思っていなかったのかもしれません。
でも、その頃の私は、そう感じていました。
それでも、不思議だったのです。
その気持ちは、一日中続くことはありませんでした。
仕事を終え、会社を出る頃には、心はもう別の場所へ向かっていました。
「早く帰ろう。」
その理由は、寄り道でも買い物でもありません。
家でブログを書きたかったのです。
二月に書き始めたばかりの、小さなブログ。
読んでくれる人がいる保証もありません。
収入になる保証もありません。
それでも、パソコンの前に座る時間が楽しみで仕方ありませんでした。
今日は何を書こう。
どんな出来事なら、誰かの役に立つだろう。
そんなことを考える時間が、少しずつ私の毎日を変えていきました。
会社では、いつもどおり働く。
家へ帰れば、新しい人生を育てる。
同じ一日なのに、心の置き場所はまるで違っていました。
私はまだ会社員でした。
でも、心はもう次の人生へ歩き始めていたのです。
第三章 心は少しずつ自由になっていった
会社では、いつもと変わらない時間が流れていました。
電話が鳴る。
来客がある。
目の前の仕事を一つずつ終えていく。
周りのみなさんも、いつもと変わりません。
私も同じように仕事をしていました。
けれど、一つだけ以前とは違うことがありました。
仕事を終えると、心まで仕事を持ち帰ることがなくなりました。
以前の私は違いました。
家へ帰っても、
「あの対応で良かっただろうか。」
「明日はあの仕事から始めよう。」
気がつけば、仕事のことばかり考えていました。
会社を出ても、心だけは会社に残っていたのです。
それが当たり前の毎日でした。
でも、退職まで二週間となった頃、その習慣はいつの間にか消えていました。
仕事を終えて会社を出る。
車に乗る。
その瞬間から、心は自然と家へ向かいます。
玄関のドアを開けると、着替えもそこそこにパソコンの前へ座る。
その時間が待ち遠しくて仕方ありませんでした。
だからといって、仕事をおろそかにしたことは一度もありません。
十年間続けてきた仕事です。
最後の日まで、その責任だけは変えたくありませんでした。
でも、責任と執着は違います。
仕事には最後まで責任を持つ。
けれど、会社に心を縛り続けることは、もうやめよう。
そんな言葉を自分に言い聞かせたわけではありません。
気づけば、そうなっていました。
十年間しがみついてきた場所が、少しずつ遠ざかっていく。
寂しさではありません。
諦めでもありません。
肩に力を入れ続けていた人が、ようやくその力を抜けたような、静かな解放でした。
私は会社を離れる準備をしていたのではありません。
自分の人生を、自分の手に戻す準備をしていたのです。
第四章 最後まで、いつもの私でいたかった
退職の日が近づいても、私の毎日は変わりませんでした。
朝になれば出勤し、電話を取り、来客を迎え、目の前の仕事を一つずつ終えていく。
特別なことは何もありません。
「もうすぐ退職ですね。」
そんな言葉をかけられることは少しずつ増えていきました。
私はそのたびに、
「そうですね。」
と笑って答えるだけでした。
退職するからといって、急に頑張るつもりもありませんでした。
反対に、「もう辞めるから」と気持ちを緩めることもありませんでした。
十年間積み重ねてきた毎日を、そのまま終えたい。
それだけだったのです。
引き継ぎも始まりました。
資料の置き場所。
仕事の進め方。
気をつけていたこと。
一つひとつを丁寧に伝えながら、仕事を次の人へ渡していきます。
「これで終わりです。」
そんな気持ちではありません。
「よろしくお願いします。」
自然とそんな気持ちになっていました。
振り返ると、私は仕事そのものを嫌いになったわけではありません。
この会社で過ごした十年間には、子どもを育てながら働いた日々もありました。
生活を支えてくれた時間もありました。
苦しいこともあった。
忘れられない出来事もあった。
それでも、そのすべてを抱えたまま、私は最後の日まで一人の職員でいたかったのです。
会社を出ると、心は自然と家へ向かいます。
昼は職員として働き、夜は自分の未来を書く。
その二つの時間を大切にしながら、私は静かに退職の日へ近づいていました。
終わりが近づいているはずなのに、不思議と心は軽くなっていく。
それは、何かを失う軽さではありません。
新しい人生を迎えるための軽さだったのだと思います。
第五章 雨の朝へ
退職前日。
朝はいつもと変わりませんでした。
いつもの道を走り、いつものように職場へ向かう。
電話が鳴れば受話器を取り、目の前の仕事を一つずつ終えていく。
「明日で最後ですね。」
そんな言葉をかけられることが少し増えました。
私はそのたびに、
「そうですね。」
と笑顔で答えていました。
感傷に浸ることもなく、特別な一日にしようとも思いませんでした。
最後だから頑張るのではなく、最後だから手を抜くのでもない。
十年間続けてきた私のまま、一日を終えたい。
それだけでした。
仕事を終え、会社を出る。
車に乗り込むと、ふと十年間通い続けた道を見渡しました。
この道を走るのも、あと一回。
そう思うと少しだけ不思議な気持ちになりました。
寂しさがなかったわけではありません。
でも、その寂しさよりも大きかったのは、静かな感謝でした。
十年間。
楽しかったこともありました。
苦しかったこともありました。
思い出したくない出来事もありました。
それでも、この場所があったから私は子どもを育てることができました。
生活を守ることもできました。
だから最後は、「終わった」と思うより、「ありがとう」と思える自分でいたかったのです。
家へ帰ると、翌日の準備を始めました。
職場のみなさんへ渡すお菓子を袋へ詰める。
忘れ物がないように車へ積み込む。
一つひとつ確認しながら、静かに明日を迎える準備をしました。
翌朝。
目覚まし時計が鳴る前に目が覚めました。
特別な朝という感じはありません。
いつものように身支度を整え、前日に用意していたお菓子を手に取ります。
玄関のドアを閉める。
車に乗り込む。
エンジンをかける。
今日も、自分らしく働こう。
その思いだけを胸に、いつもの道を走り始めました。
空からは、静かに雨が降っていました。
その雨が、十年間の締めくくりになることを、このときの私はまだ知りませんでした。
この一冊を読み終えてくださり、
ありがとうございました。
人生の本棚には、
まだたくさんの一冊があります。
もしよろしければ、
次の一冊も手に取っていただけたら嬉しいです。


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