退職日の雨

人生の本棚 退職シリーズ第五冊『退職日の雨』の表紙。退職日の雨。十年間働いた職場に感謝を伝え、新しい人生へ歩き始める物語

人生には、長い時間を過ごした場所へ、別れを告げる日があります。

楽しかったことも、苦しかったことも、すべてを抱えたまま迎えた、十年間の最後の日。

その日は、朝から雨が降っていました。

第一章 最後の朝

退職の日。

朝、目を覚ますと、雨の音が聞こえていました。

カーテンを開けると、空は厚い雲に覆われています。

「今日は雨か。」

そうつぶやき、静かに窓の外を眺めました。

身支度を整え、前の日に用意しておいたお菓子を車へ積み込みます。

いつもと同じ時間に家を出て、

いつもと同じ道を走る。

信号も、交差点も、見慣れた景色も、何ひとつ変わっていません。

変わったのは、今日が最後だということだけでした。

会社へ着き、エンジンを切ります。

車の中には、雨音だけが静かに響いていました。

私は車を降り、会社の玄関へ目を向けます。

ここへ向かうのも、今日で最後。

そう思うと、自然と大きく息を吸っていました。

傘を差し、歩き始めます。

視線は自然と足元へ落ちました。

雨に濡れた地面を、一歩、また一歩。

十年間、何度も歩いた道です。

嬉しかった日もありました。

苦しかった日もありました。

心が折れそうになりながら歩いた日もありました。

それでも私は、この道を歩き続けてきました。

今日も同じように、一歩ずつ歩きます。

玄関の前まで来ると、自動ドアが静かに開き始めました。

私は小さく息を整え、心の中で一言だけつぶやきました。

今日で終わる。

そして私は、十年間通い続けた会社へ、最後の一歩を踏み入れました。

第二章 いつもと同じ朝

玄関を入ると、いつもの朝でした。

「おはようございます。」

「おはようございます。」

毎朝、この時間に顔を合わせる方と、いつもどおり挨拶を交わします。

誰も特別な表情はしていません。

今日が私の退職日だと知っている方は、ごくわずかでした。

私は自分から話さなかったのです。

最後まで、いつもどおり働きたい。

その気持ちは変わりませんでした。

席へ座り、机の上へ静かに目を向けます。

見慣れたパソコン。

毎日使っていた電話。

何気なく置かれた文房具。

十年間、毎日見てきた景色です。

その景色を見つめながら、心の中で一言だけつぶやきました。

今日で最後なんだ。

そう思っても、不思議と涙は出ませんでした。

寂しさに浸る時間もありません。

パソコンの電源を入れると、いつもの一日が始まります。

電話が鳴る。

書類が届く。

「お願いします。」

「ありがとうございます。」

職場には、いつもと変わらない時間が流れていました。

その中で、私だけが静かに十年間の終わりを感じていました。

第三章 一つずつ終わっていく

仕事は、いつもどおり進んでいきました。

私も、目の前の仕事を一つずつ終えていきます。

でも、その日は違いました。

仕事が一つ終わるたびに、

「これが最後かもしれない。」

そんな思いが、静かによぎるのです。

ある書類を確認し、所定の場所へ戻しました。

いつもなら何も思わない、小さな動作です。

でも、その日は違いました。

この書類を片付けるのも、今日で最後。

ふと、手が止まりました。

十年間。

数えきれないほど繰り返してきた仕事です。

特別な仕事ではありません。

誰かに褒められる仕事でもありません。

それでも私は、その一つひとつを積み重ねながら働いてきました。

書類からそっと手を離し、引き出しを静かに閉めます。

その音だけが、小さく耳に残りました。

私は何事もなかったように席へ戻り、次の仕事へ向かいました。

誰も気づきません。

私だけが、その一つひとつに静かに別れを告げていました。

第四章 最後に選んだ言葉

午後になっても、仕事は途切れなかった。

私は午後二時になったら、お世話になった方へお菓子を配ろうと決めていた。

一人ずつ。

感謝を伝えながら。

静かに、この一日を終えたかった。

けれど、その日は思いどおりにはいかなかった。

私の退職を知らない方が、いつものように仕事を持って来られる。

「お願いします。」

私はいつもと同じように笑顔で受け取った。

明日からここにいないからといって、断る理由はなかった。

一つ終えると、また一つ。

時計を見るたびに時間は過ぎ、お菓子を配ることもできないまま午後は流れていった。

このまま静かに終わるのかもしれない。

そう思いながら仕事を続けていると、課長が私の席へ来た。

「最後に挨拶をしましょう。」

私は小さく頷いた。

立ち上がろうとした、その時だった。

課長が私の隣で、小さな声で言った。

「がんばれ。

急がなくていい。」

その一言で、胸の奥にしまっていた十年間が、一気によみがえった。

幼い息子の手を引いて保育園へ通った朝。

熱を出して仕事を休ませてもらった日。

学校行事へ参加できたこと。

笑い合ったこと。

苦しかったこと。

助けてもらえなかったこと。

そして、支えてもらったこと。

いろいろな出来事があった。

楽しいことばかりではなかった。

苦しい時間も確かにあった。

それでも一つだけ、はっきりと言えることがある。

この職場があったから、私は子どもを育てることができた。

その思いに気づいた瞬間、嫌な出来事は静かに遠ざかっていった。

私は前を向いた。

みんなの顔が見えた。

話そうとする。

でも、声が出ない。

何度息を整えても、涙が先にあふれてくる。

静かな職場だった。

誰一人、急かす人はいなかった。

私はもう一度息を吸い、ようやく口を開いた。

「長い間、お世話になりました。」

言葉はそこで止まった。

もう一度、ゆっくりと顔を上げる。

「本当に、お世話になりました。」

私が伝えられたのは、その二つの言葉だけだった。

でも、それで十分だった。

言葉にできなかった感謝も。

言葉にできなかった苦しさも。

十年間という時間も。

すべて、その二つの言葉に込めた。

私は深く頭を下げた。

静まり返っていた職場に、一人の拍手が響く。

その拍手は少しずつ広がり、やがて職場全体を包み込んだ。

私はもう一度頭を下げた。

荷物を持ち、席を離れる。

課の皆さんが一緒に玄関まで歩いてくださった。

誰も大きな声では話さない。

その静けさが、かえって温かかった。

玄関で私は振り返り、もう一度深く頭を下げた。

「長い間、本当にありがとうございました。」

顔を上げると、皆さんが笑顔で見送ってくださっていた。

朝、この会社を見上げながら思った。

「ここへ向かうのも今日で最後。」

その言葉が、今は静かに変わっていた。

「ありがとうございました。」

私は傘を開いた。

雨は朝と変わらず降り続いていた。

それでも、私の心はもう雨の中にはなかった。

私は前を向き、新しい人生へ向かって歩き始めた。

この一冊を読み終えてくださり、

ありがとうございました。

人生の本棚には、

まだたくさんの一冊があります。

もしよろしければ、

次の一冊も手に取っていただけたら嬉しいです。

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