第一章 人生で初めて、自分の時間を手に入れた朝
退職して初めて迎えた朝。
目が覚めると、時計は六時を指していた。
目覚まし時計が鳴ったわけではない。
十年間で身についた体のリズムが、いつもの時間に私を起こしたのだ。
布団の中で天井を見つめる。
そして、静かに思った。
「今日は、会社へ行かなくていい。」
その一言が、胸の中へゆっくりと広がっていく。
けれど、朝はいつも通り始まった。
息子を送り出す朝は、退職したからといって変わるわけではない。
私は布団を出て、カーテンを開けた。
三月の朝の光が部屋へ差し込む。
昨日と同じ景色。
それなのに、どこか違って見えた。
洗面所へ向かう。
顔を洗い、髪を整える。
鏡の前でブラシを動かしていた、その時だった。
ふと、笑ってしまった。
「あっ、そうだった。」
今日は会社へ行かなくていい。
急いで支度をする必要もない。
いつものように体だけが動いていた自分がおかしくて、一人で笑ってしまった。
十年間という時間は、それほど長かったのだ。
息子を見送る。
「いってらっしゃい。」
いつもと変わらない一言。
玄関のドアが閉まる音がして、家の中は静かになった。
私は一人、リビングに立っていた。
昨日までなら、この時間には私も車へ乗り込み、会社へ向かっていた。
時計ばかり気にしていた朝。
遅れないように。
迷惑をかけないように。
そんなことばかり考えていた。
けれど今、私を急がせるものは何もなかった。
私は窓を開けた。
まだ少し冷たい三月の空気が、ゆっくり部屋へ流れ込んでくる。
思わず深呼吸をした。
澄んだ空気が胸いっぱいに広がる。
その気持ちよさに誘われるように、私はベランダへ出た。
部屋へ戻り、小さな椅子を一脚持ってくる。
ベランダへ置き、腰を下ろした。
湯気の立つコーヒーを両手で包み込む。
遠くから子どもたちの声が聞こえた。
「いってきます。」
「おはよう。」
楽しそうな声が、朝の空気に溶けていく。
私はその声を聞きながら、ゆっくりコーヒーを飲んだ。
十年間、この時間の家にいたことはほとんどなかった。
だから知らなかった。
朝とは、こんなにも静かで。
こんなにも優しい時間だったことを。
私はもう一度、大きく息を吸った。
冷たい空気が肺いっぱいに広がる。
その瞬間、両手が自然と空へ伸びていた。
万歳をするつもりなんてなかった。
でも、体が勝手に動いた。
その姿がおかしくて、また笑った。
そして、小さくつぶやく。
「今日から自由だ。」
誰かに向かって言った言葉ではない。
自分自身へ贈った、最初の言葉だった。
第二章 昨日は昨日、今日は今日
ベランダで過ごした朝の余韻を胸に、私は部屋へ戻った。
マグカップを流し台へ置く。
窓から差し込む光が、静かなリビングをやさしく照らしていた。
昨日までなら、この時間は仕事をしていた。
電話が鳴り、書類を確認し、時計を気にしながら一つひとつ仕事を終えていた。
今は、部屋の中を流れる時間まで、ゆっくりになったように感じる。
私は机の引き出しから一冊のノートを取り出した。
昨日のことを書いておきたかった。
雨の朝。
最後の出勤。
最後の仕事。
課長がかけてくださった、
「がんばれ。急がなくていい。」
という言葉。
職場の皆さんの拍手。
玄関で最後に交わした、
「本当にありがとうございました。」
一つひとつ思い返しながら、静かに書き留めていく。
書き終える頃には、不思議なくらい心が落ち着いていた。
私はノートを閉じ、小さくつぶやく。
「昨日は昨日。」
そう思えた。
昨日は大切な一日だった。
でも、もう終わった一日でもある。
今日は、新しい今日を生きればいい。
私はパソコンを開いた。
二月から始めたブログ。
まだ何も分からないことばかりだった。
知りたいことを調べる。
また一つ疑問が出てくる。
調べる。
書いてみる。
また調べる。
その繰り返しが、たまらなく楽しかった。
会社で働いていた頃の私は、時計ばかり見ていた。
「あと何分。」
「あと一時間。」
そんなふうに時間を追いかけながら過ごしていた。
けれど、パソコンへ向かっているうちに、時計を見ることを忘れていた。
夢中になるとは、こういうことなのかもしれない。
ふと時計を見る。
「えっ、もうこんな時間?」
思わず笑ってしまった。
昨日まで何度も時計を見ながら働いていた私が、今日は時間を忘れるほど、一つのことに夢中になっている。
その変化が、なんだかうれしかった。
気づけば、お昼になっていた。
私はパソコンを閉じ、台所へ向かった。
ご飯をよそう。
納豆。
大根おろし。
目玉焼き。
キムチ。
人参の葉のみそ汁。
いつもと変わらない昼ご飯。
特別な料理ではない。
それでも、その日の昼ご飯は、とてもおいしく感じた。
テレビはつけない。
静かな部屋で、ゆっくり箸を動かす。
頭の中では、さっきまで調べていたブログのことが次々と浮かんでくる。
「あれも書いてみたい。」
「これも調べてみよう。」
昨日まで仕事のことを考えていた私が、今日はブログのことを考えている。
それだけのことなのに、人生が少し動き始めたような気がした。
私はみそ汁を飲み干し、小さく笑った。
午後は、何をしよう。
その問いを、自分で考えられることが、うれしかった。
第三章 自分で選ぶ時間
昼食を終え、食器を片づける。
流し台に水の音だけが静かに響いていた。
私は時計を見た。
午後一時。
昨日までなら、この時間は仕事の真っ最中だった。
電話が鳴り、来客があり、時計を気にしながら次の仕事へ向かっていた頃だ。
今、午後の時間は、そのまま私の前に広がっていた。
私は玄関のドアを開けた。
外の空気は、朝より少しだけ柔らかくなっていた。
健康のためにも歩こう。
そう思い、ゆっくり歩き始める。
急ぐ必要はない。
何時までに戻らなければならないという約束もない。
歩く速さも。
立ち止まる場所も。
今日は全部、自分で決められる。
見慣れた道だった。
何度も車で通った道。
何度も急ぎ足で歩いた道。
それなのに、その日は違って見えた。
道の端に残る雪。
少しずつやわらかくなった風。
空を流れる雲。
今まで見えていなかったものが、一つずつ目に入ってくる。
私は足を止めた。
空を見上げる。
ゆっくり息を吸う。
午後の空気は、朝とはまた違う気持ちよさがあった。
十年間。
午後という時間は、働く時間だった。
だから私は、この景色を知らなかった。
こんなふうに立ち止まり、
空を見上げる時間があることも知らなかった。
私はまた歩き始める。
誰かに決められた道ではない。
自分で歩きたいと思って歩く道だった。
気づけば、思っていたより遠くまで来ていた。
少し汗ばんだ額を手の甲で拭く。
疲れているはずなのに、不思議と体は軽かった。
家へ帰る道を歩きながら、私は小さく笑う。
何も特別なことはしていない。
遠くへ出掛けたわけでもない。
贅沢をしたわけでもない。
それでも、この一日は満たされていた。
帰る時間も、歩く道も、今日はすべて自分で決めた。
第四章 明日も楽しもう
散歩から帰ると、少し汗ばんでいた。
手を洗い、冷たい麦茶を一杯飲む。
それだけで、心まで満たされていくようだった。
午後は、また少しだけパソコンを開いた。
ブログの記事を書いたり。
気になったことを調べたり。
思いついたことをノートへ書き留めたり。
何かに追われているわけではない。
好きだから、やっている。
そんな時間だった。
窓の外を見る。
西日が少しずつ部屋へ差し込み始めていた。
一日は、思っていたより早く過ぎていく。
それでも、不思議だった。
「もう終わってしまう。」
そんな気持ちにはならなかった。
むしろ、
「今日も、いい一日だった。」
その言葉が、静かに胸へ浮かんできた。
夕食を終え、いつものように片づけを済ませる。
部屋には、穏やかな静けさが戻っていた。
朝はベランダでコーヒーを飲み、昼はブログに夢中になり、午後はゆっくり歩いた。
特別なことは、何もしていない。
それでも、一日を終えようとする私の心は、不思議なくらい満たされていた。
私は布団へ入る。
天井を見上げる。
昨日までの私は、明日の仕事のことを考えながら眠っていた。
けれどその夜、頭に浮かんでいたのは、これから始まる一日のことだった。
明日は何をしよう。
どんなことを調べよう。
どんな記事を書こう。
そんなことを考えているだけで、自然と笑顔になっていた。
部屋の明かりを消す。
静かな夜が始まる。
退職して初めて迎えた一日は、何も特別なことは起こらなかった。
それでも私は、その「何もない一日」を、人生で初めて心から味わうことができた。
私は目を閉じる。
「明日も楽しもう。」
その一言と一緒に、静かな眠りについた。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
人生は、大きな出来事だけで変わるものではありません。
何気ない一日が、人生でいちばん大切な一日になることもあります。
この物語が、あなた自身の「これから」を見つめる時間になれば幸いです。


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